「またか」
見なきゃいいのに、友人のインスタの投稿やラインのアイコンの変化を眺めて死ぬほど凹む。
同級生がまた結婚しているし、二人目が産まれているし。
あぁもうなんなんだろう。
対して、自分の人生の進展の無さ。
体重が3キロ増えただけ。
無駄な贅肉を摘んでは、自分の人生のくだらなさにため息が出る。
下手すると、芸能人の妊娠のニュースでさえ落ち込むのだ。
結婚、妊娠、出産、子どもの成長、全てのご報告から逃れたくなる日もある。
自分が焦って追い詰められてしまうから。
他人と自分の人生は別物。
比べる必要なんてない。
分かってる。
それでもまぶしい。
まぶしいものを見ると、自分の報われないこれまでの苦労を思い
寝る前に一人、苦しくて孤独で泣いている。
涙の中にストレスが混ざっているのに流れ落ちない。
同級生は泣く子どもをあやしている中、私は未だに声をあげて泣く大人のまま。
こんな風に書いてみると、余計に惨めになる。
その悲しみも過ぎ去ると、怒りに変化し、どす黒い感情が暴れだす。
ここに書くのは躊躇うくらいの汚い感情。
全人類、全てに怒りが湧いてくるのだ。
自分がどん底の時に、人の幸せを喜べる人は女神だと思う。
私はそうはなれなかった。
「人の幸せが喜べません」という相談がたまに来る。
「それはよくないですね」なんて決して言えない。
そんな感情は当たり前ですよと言いたい。
自分が不幸な時には余裕なんてないしネガティブになってしまう。
大抵の人はそんなもんだろう。
人には幸福期と不幸期があり、突然それがひっくり返ることは知っている。
細かい事に、いちいち悲しむことはないのだ。
不幸がきっかけになり、更に幸せになったりもするものだ。
でも、今すぐに、幸せになりたいと思ってしまう。
他の人が不幸になったら、自分が幸せになれるわけじゃないのも知っている。
でも、私だけ取り残されて理不尽な思いばかりするのは嫌なのだ。
どれだけ傷つく恋愛をしようが、最後は幸せな結婚をした友人達をたくさん見てきた。
その人達が、もがきながら前に進んでいた間、私はきっと一歩も動けていなかった。
自業自得だと自分を責めてしまう。
いつか私が幸せを手にしたら。
そしたらこのどす黒い感情は治まるのだろうか。
それとも
もっと上の幸せを妬み、羨み、苦しむのだろうか。
そう考えると、この悲しみと怒りが鎮まるのは
全てを諦めた時かもしれない。
嫉妬や焦りは 何も感じなくなり、自分とは違う世界の話だと割り切ることが出来て、私は私の人生だけに目を向けてのんびり生きられるのかも。
誰かを憎んだり、何かに執着して生きるのはもう辞めたい。
余裕のある人間になりたい。
優しい人は余裕がある人のことだと気付いた。
誰かの不幸を願ってしまいそうになる時、もう一人の自分が必死で止める。
「それは自分の幸せには繋がってないよ。それよりも自分もみんなも幸せになれますように」
こう見えて私だって半分は天使の顔をしている。
悲しみや怒りに憑りつかれないように、優しい私が醜い私をなだめる。
もう半分の悪魔が大泣きしながら自分の人生を嘆く。
その嫉妬心の大きさに引きずられないようにしなくては。
誰かのインスタやラインをながめて、焦り傷つく時、
江國香織の『すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)』に載っていた詩を頭に思い浮かべる。
「どっちみち
百年たてば 誰もいない
あたしも あなたも あのひとも」
そうすると、私の嫉妬心や執着は、少しだけ和らぐのだった。
短い人生。
百年後は確実に何もなくなっている。
私の焦りも悩みも、恋焦がれた誰かも、ずる賢くて幸せそうなあの人も。
梅雨。湿気と暗い空で心までやられてしまいそう。
こんな雨の日は憂鬱になりがちだが、無理して汚い感情を消そうとしなくていい。
「どっちみち、、、」と静かに唱えて、厚い布団の中で夏をフライングして冷房をつけ、ゆっくり目を閉じるのがきっと良い。
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